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前日の記事の続きです。 山名八幡宮は、安産と子育ての神としても信仰されています。 山名八幡宮の公式ホームページによると、後醍醐天皇の孫の君長親王が山名城に滞在中に、山名氏と同じ新田一門で山名城主だった世良田政義の娘が親王の子を解任しました。 その際に山名八幡宮に安産祈願をして、無事に男子を出産したそうです。 それ以来、安産と子育ての神として崇敬されるようになったという伝承があるそうです。 拝殿階段を上がると、すぐ目の前が拝殿です。 本殿本殿のすぐ後ろの山は八幡山と呼ばれています。 神馬像全国の山名氏の子孫達によって奉納された物です。 西国に向けられて設置されています。 太刀割石馬庭念流という剣術の達人樋口定次が枇杷の木剣で断ち割ったと伝えられる石です。 定次は、1600年に高崎城主井伊直政の許しを得て天真流という剣術の達人村上天流と試合をすることになり、山名八幡宮に三日三晩の祈願をしました。 満願の日に「本望が達せられるならば、神前の大石を木剣にて断ち割らせたまえ」と木剣を振り下ろして見事に断ち割り、試合でも天流に勝ったそうです。 狛犬(左)普段はあまり狛犬は気にしたことはないのですが、立派な角が生えているのが気に入りました。 あまり角のあるタイプは見たことがなかったので、ちょっと調べて見ました。 左は角付き、右は角無しが基本のようですが、昭和以降に作られた物には左右共に角のない物が多いそうです。 狛犬(右)基本通りで角無しです。 逆に左右角付きなんて物はないのでしょうか? 山名氏について 新田氏初代義重の三男義範が八幡荘山名郷を相続して山名を名字としたことに始まります。 源頼朝が平家に対して挙兵した時、新田義重は頼朝の呼びかけに応じずに上野国の寺尾城に篭って頼朝の敵に回るかのような行動を取りました。 それに対して山名義範は、いち早くに頼朝の所に駆けつけて信頼を得ました。 義範とは従兄弟にあたる足利義兼も同様にいち早く駆けつけ、頼朝の信頼を得ています。 義範は、新田義重の子ではなく孫とする説があります。 足利一門の矢田義清と新田義重の娘との間にできた子であり、足利氏の惣領の義兼に従っていたという説です。 義重はその後頼朝に拝謁を許されて御家人となりますが、新田宗家は幕府から重用されませんでした。 義範と義兼は、頼朝と公式に同族扱いが認められる御門葉という家柄に任じられました。 しかし新田宗家は御門葉にはなれませんでした。 新田一門で、義範の甥の里見義成も頼朝に仕えました。 義成は、「その志、祖父義重に異なる」と頼朝に賞賛されました。 里見氏と山名氏は、頼朝の御家人となったことで新田宗家からは独立した存在と公的に認められたことになり、この二家に対する新田宗家の支配力は弱まりました。 山名氏は、鎌倉倒幕後は足利氏に従い室町幕府の四職の家柄となりました。 家紋も二つ引き両に改めています。 最盛期には、日本66カ国の内の六分の一にあたる11カ国の守護職を山名氏一門が占め、惣領の山名氏清は六分の一殿と呼ばれました。 一時衰退し、山名持豊(宗全)の代に再び勢力を盛り返しました。 宗全は、応仁の乱の時の西軍の総大将として有名です。 西陣織で有名な「西陣」は、宗全が応仁の乱で京都の堀川より西に陣を置いたことに由来します。 宗全以後の山名氏は衰退の一途を辿り、山名豊国が因幡に所領を賜り豊臣秀吉の御伽衆として仕えました。 豊国は関ヶ原では徳川方に味方したため、江戸時代は代々旗本として交代寄合の職に就きました。 明治になると華族に列せられ男爵になりました。 |
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こんばんは♪ |
mikomai 2008/06/20 19:59 |
>むしろコチラが本編ですね |
Z31 2008/06/21 13:22 |
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